小野和彦のヒストリー


夢なんて持ってなかった


プラモデル



小学生の頃は、飛行機のプラモデルばかり作っていました。
あの空を飛ぶ形に、なんとも知れない魅力を感じていましたね。

高校生までは、漠然とパイロットになれたら、かっこいいだろうなーという程度。
柔道部に入ったら、男ばかりで、道場には女の子の見学もない。

「女の子にもてたーい」

グランドに出たら、野球部や、サッカー部のように持てる。と思い、
ラグビー部へ転部。

しかし、このラグビー部。学校一のワルの集まりでした。
野球や、サッカー部のように綺麗じゃない。
いつも泥だらけ。


勝てるのは、進学校の灘高のみ。

目的は、達せられませんでしたが、
あの体でぶつかる感じが、楽しかったですね。

今だったら、さぞ、もてただろうにと悔しい思いです。


航空大学校というものがあると知って、私でもなれるかもと思い、
やっと高校3年から、勉強しました。
しかし、当時、倍率が20倍以上あった航空大学校に入れるはずもなく、浪人。

憧れの航空大学校



浪人して、なんとか学科合格。
その前に、自衛隊の航空学生を受けましたが、適性検査の実機での飛行で、ゲロ吐きまくって、終わりました。


航空大学校の適性検査は、なんとかこらえてやっとこさの合格でした。
車も、電車も、バスもすぐに酔って、吐いていたので、よくもったなと思います。
これは、航空大学校に入ってからも卒業近くまで、
改善されず、タプンタプンのゲロ袋とともに降機してましたね。

航空大学校



そのために、帯広分校でのソロチェック(これに合格しなければ、学校をやめなければいけなくなります。)の前に、教官に呼び出されて、
「もう、帰れ。訓練をしても無駄だ」と言い渡されました。

「ソロチェックは受けさせてください。」
それで落とされたら、帰りますからとお願いし、
訓練を続けさせてもらいました。


私たちの入学当時の同期生は、44名いたのですが、
この帯広で、37名になってしまったのです。


運良く、なんとか、私は残ることができました。



空酔いは、相変わらずのひどさでしたね。

どうやって治ったかって、

もう卒業間近の時に、教官から、吐くな飲み込めと言われ、
口いっぱいに出てきたものを、飲み込みました。
鼻からは、垂れてくるは、目にも逆流している感じでした。
それからは、不思議と気持ち悪くなっても、戻さなくなりましたね。

航空大学校卒業、憧れの日本航空へ



卒業の前年、あこがれの日本航空に入いるんだーと思ってました。


突然の石油ショック。
就職の枠が狭くなり、空と関係のないSONY商事株式会社に就職です。
営業の経験を積ませてもらいました。


一度は、あきらめたつもりの、空への夢は捨て切れずに、
農林水産航空協会という国の機関でヘリコプターの免許を取りました。
ここは、就職先を決めてから、訓練に入り、無事卒業すれば、
その会社の本採用になると云うシステムでした。
私は、東亜国内航空のヘリコプター事業部に就職が決まってました。


しかし、またもや不況で、
卒業後、会社に行くと、本採用はできない、ついては嘱託契約で整備の手伝いをやってくれと。

物資輸送、薬剤散布での整備作業の手伝いを、1年間やりました。

その後、取材飛行を担当していた、固定翼のパイロットが定年を迎えるということで、
本採用となり、ヘリコプターと小型ジェットで、産経新聞、フジテレビの取材飛行を担当しました。

画像の説明


やっと旅客機のパイロットになる。



その後、ヘリコプター事業部が縮小されるということで、路線飛行部門に移りました。
いやー、嬉しかったですね。


最終的には機長、副操縦士、約150人を統括する第一路線室長という立場になりました。

会社も東亜国内航空、ジャパンエアシステム 日本航空と変遷して来ました。
なんとか最後にはあこがれの日本航空に入る事が出来ました。

今、振り返ると、
当時、路線飛行の機長になると信じて、
じっとその時にやれることをやっていた人間が、
一番早く機長になりましたね。

大きなうねりの中で、もがいても仕方がない時に、ウロウロしないで、
目標をしっかり持って、ぶれないことがとても大切だなと心から思います。

画像の説明


退職



しかしさすがの日本航空も時代の波には勝てず、乗り続けたDC-9も退役となった年、2010年に早期退職を決断します。

最後のフライトが、飛べなくなった



退職の前、その機種の統括である私が、
私と、DC-9型機のリタイヤのラストフライト機長としてフライトをする予定で進んでいました。

2ヶ月前から、風邪をひかないように体調に細心の注意をして、
家族のチケットも購入して、
その日を迎えるように、万全の体制をとっていました。


しかし、
そのフライトの10日前、
会社に行くと、「小野さん、健康管理室から、フライト停止だと通知が来てますよ。」と、

脳下垂体に腫瘍が見つかりフライトを下ろされてしまいます。

まさか自分のフライト人生がこんな終わり方をするとは夢にも思っていませんでした。


とは言え、無事故で終わる事が出来たのはとても幸せなことでした。

退職して


その後、退職、手術とめまぐるしく1年が過ぎ、 制服を着ない自分を振り返ったとき、自分の信念や観念が本当に正しかったのだろうか?という疑問が湧いて来ました。

それと同時に、もう飛べないんだという思いと、
この収入がなくなる。
何をすればいいんだろう?

という不安が、ワーッ心の中に沸き起こってきました。

この不安をなんとかしなければ、という思いで、いろいろなセミナーを受けました。

フォトリーディング、マインドマップ、心を整えたいとヒプノセラピー、
SpeedReading、記憶術、ハーモニー体操を学びました。

アタマや体の使い方がわかってくると、


今まで信じてきた、「正しいことがあって、それを成し遂げること」が大切。
そう思っていた信念が、私の不安の元凶だとなんとなく感じてきました。

これからの社会を生きる



これからの時代は私達の年代が、
もっと自由に、想像力豊かに人生を過ごす必要があると痛感しています。


ウィンドサーフィンも約30年間続けて来ました。
自然を感じるスポーツのすばらしさ、自然と共鳴する生き方も学んで来ました。

プラモデル



続けてきたおかげで、世界最高峰のプロのレースであるPWAに、
参戦出来るようになりました。
韓国で開かれる大会で、韓国のオーガナイザーの枠で出させてもらえるだけで、
実力ではないのです。
それでも、世界最高峰の選手たちと同じ、海に入れるだけで、幸せです。


この風を肌で感じた経験は、最も緊張が高まる着陸や離陸の場面で、私のPILOT人生を助けてくれたと確信しています。
PILOTの仕事は非常にメカニカルな仕事だと思われていますが、
相手にするのは自然と人なんです。


私は、機長の仕事を通して、チームビルディングやリーダーシップ、決断力、 教育する立場に立ち、人を育てるコミュニケーションの大切さを学びました。


今まで、目の前の事を乗り切る事で見えなかった事が、ゆっくりと自分を見直す時間が取れた事で、客観的に見えるようになりました。


私達は〜をしなければ、~をやるべきだ、~を出来なければダメなんだ。
といつも何かに追い立てられるように生きて来ました。


そうして努力する事が善だと教わって来たのです。

それは、本当か?



退職した後、言いようのない不安に押しつぶされそうになりました。
それが何処から来るのか?
やっと解りました。


このやらなければ、努力しないやつはダメなんだ。
そういう観念が私を縛り付けているのが解ったのです。


今、思う事は、 この世の中は個人個人の脳が作り出した世界であり、
実際の世界は一人一人の頭にしか存在しない。
その世界を変える事が出来るのは、自分の頭のプログラミングを自分らしく変えることでしかなし得ない。という事です。


未来を担う子供達にはもっと楽しくもっとおおらかに自分の可能性を伸ばせる能力がある事に気づいて欲しいと思います。


「笑顔で学ぶ」を皆様と一緒に味わいたい、また子供の天才性をもっとのばしたい、子供の笑顔をもっと増やしたいと願って、講師として生きて行こうと決意しました。

人間の一生における可能性のすべての種や芽は、
                                野口三千三
今の自分の中に存在する。


取得資格


トニー・ブザン公認

  • MindMapインストラクター
  • SpeedReadingインストラクター
  • Memoryインストラクター
  • 米国催眠療法協会(ABH)ヒプノセラピーインストラクター
  • ハーモニー体操  準指導員
  • 国土交通省 航空局認定 特別操縦技能審査員